昭和43年 5月26日 朝
信心の心得に、疑いを去りて信心してみよ。みかげは和賀心にありと。和賀心とは我心と。神は声もなし、形もなし、形も見えず疑えば限りなし、恐るべし恐るべしと。恐るべし疑いも去れよと。疑いを去れと。疑いを去りて信心してみよと。
こういうような信心さして頂く者の心得の中で、言うておられることは、それは神様が信じよと。信じてくれよと。というものを感じます。信じてくれと。信じよと。
ですから、信心をさして頂きます、お道の信心は祈念祈祷で助かるのではない。話しを聞いて助かる道と仰りますから、話しそのものがやはり、話しそのものが、まぁーおかげのもとになる。話しそのものを疑うて聞いたら、おかげはならん。
ですから、このお話しをこの疑わずに、疑いを去ってお話しを頂かなければいけないです。ですから、そのお話しを頂く一つの姿勢と言いますかね、態度っていうものは、例えばここに、百名なら百名の方が集まっておる。その百名のものに御理解下さるのではなくて、私一人に下さってあるんだというような頂き方。そういう姿勢。そういう態度が、ね、必要なんです。
神様は私一人のために、この場を用意してくださっておるんだと、そう信じるのです。そういう私は頂き方、そこにおかげはおかげは和賀心にありということに、なってくるんだと思うんですね。どうぞ一つ、話を自分のためにくださってあると、まず信じる。疑いを去れよと、もうこのことを、しきりにその仰っておられますね。お道の信心の心得の中に。
ね、疑いを去りて信心してみよ。みかげ、霊験は和賀心にあり。ここで和賀心というのは、和らぎ喜ぶとは書いてない。ね、ですから、例えば、和らぎ喜ぶ心にならなくちゃならん。天地書附などには、おかげは和賀心にあり。おかげはありがたいという心に、和らぎ喜ぶ心にあると、こう仰るんです。
ここでは、もう疑いを去ればですね、疑いを去って、それを信じて聞けば、もうおかげはそこにあると、言ううてありますよね。
次のところの、神は声もなし、形も見えず疑えば限りなし、恐るべし疑いを去れ。ここに恐るべし疑いを去れよとまで仰っている。これは本当にあの、信心さして頂く者が、心しなければならないこと。
お願いをして、おかげを受ける。おかげを受けても、おかげを受けても、本当に神様のおかげと思い切らん人があります。これは、神様のおかげと半信半疑でおるわけです。ね、あとは、ちょうど(???)という具合にするわけなんですね。これでは、おかげが受けられんでも、私はここんところが、どういう意味かよくまだ分かりませんけれども、恐るべしとこう言う、恐るべし疑いを去れよと。信心する者は神様へ向こうて、神様へお願いをしたら最後、もう大体はお取次ぎを願う、もうそこから、お願いに対する働きというものが始まる、と信じなければいけない。
信じなければいけない、信じなければいけないと、その信ずるが本当なんですね実は。神様の働きというのは早速始まってくるのです。そこんところが、やはりあの、本当のことになってこなければなりません。
御理解、御教えを頂くでも、たくさんの者が一同に集まって、お話を頂いている中から、あのお話はあの人にしござあとだろう、この話しはこの人言いござあとだろう、じゃなくて。自分自身、私一人の為にくださってあるものだと信じて頂くのです。
はー、この話しは内の嫁子に聞かせないけん。これをうちの息子に聞かせないけん。うちの嫁子や息子のために話しごたあとじゃなか。ばばさん、あんたがために話しようとばいと言うてから言いござあとです。ね、そこんところを一つ、ね、私のためにくださってあると信じなければいけません。信じて疑わないところに、おかげは和賀心にありとこう仰る。
これは御理解に、御理解三十一節に、信心する者は、木のきり株に腰を下ろして休んでも、立つ時には礼を言う心持になれよと。同じく三十二節に、女が菜園に出て、野菜畑ですね、女が菜園に出て、菜を抜く時、地を拝んで抜くようになる。抜くというような心になれば、おかげがあると。また、それを煮て食べる時、神様頂きますという心になれば、心あらば、あたることなしと仰る。
はっきりこう言うておられますから、そういう心持ちにならなくてはいけない。そこで私は思うんですがね、一切のものに、私がこう御の字を付けないけんと。ね、あの、自動車でお参りする方もたくさんあるでしょう。それをこの、神様の車と、自分の車と言うと御の字を付けにくいから、神様から頂いておるとか、使っておるということになれば、それが御車であり、御自動車であるということになる。
ああ、この靴、私が履くと思わずにですね、やはりこれは、神様の御物として頂くと、御靴であり御下駄になってくるわけです。御の字を付けるとね、それが拝みやすくなる。いや拝まにゃいられなくなってくる。
ね、女、菜園に出て菜を抜くときに、拝む、もうね、拝む心持ちになれよと。木のきり株に腰を下ろしても、礼を言う気持ちになれよと。ですから、まぁ木のきり株といえば、まぁ言うならば、まぁ何にもならんもん、のようなものをですね、木のきり株に腰掛けて誰にお礼を言う。
やっぱりそりゃ、木のきり株、ね、御きり株様というような気持ちでおると、木のきり株に対しましても、御礼が言える。そういう心持ちにならなければ、おかげは受けられんと仰るのですから、ここんところを稽古することですから、さほど難しいことじゃないです。ね、帰りにまず履かして頂く御下駄様に、御の字を付けなければいけません。
御の字を付ける。それはもう、どのような汚い者にでも御の字を付ける。どんなにいらないような物でも、御の字を付ける。ね、そういう心持ちが信心さして頂くものには、必要なんです。
ね、ですから、そこんところを皆が信じて、そのことを行じるのです。ね、そのことに一生懸命なるのです。それを例えば、そげん何十年間でん、御の字ば付けられるかもんかいというて、聞いたりしておるから。それが、いつまでも御の字が付かん、いつまでもそういう拝むことができん。
それを頂く時に、抜く時にも、お礼を言わん。煮て食べる時はお礼を言わん。全てのことに、御の字を付けさせてもらうというような心がけが、必要ぞと仰るんですから、そのことばですね、私、実行しなければいけない。
そこからです、ね、おかげは和賀心にあり。ところが、私どもは例えて言うならば、煮て食べる時にあたることかなしと仰るが、それがあたる、障る。ね、例えば、仕事をしすぎたと言やぁ、腰が痛なる。今日はもう足が痛かと。手が痛かと。もう確かに、御の字を付け忘れとる時です。
自分で自分の、体を良かごと使うとる。ね、不平不足を思うてから御用しておる。もうそういうふうに言うとですね、確かにそうですね。自分の、やはり我力で仕事をする。神様からさせて頂くという、御の字を付けてない。ね、御仕事と。
いわゆるそれはまぁ御用というわけなんですけれども、本当に御用である場合には、疲れるはずがない。ところが疲れる。ね、その疲れるところをです、その疲れるところをです、(?????)自分が御の字をつけることが、本当のものじゃないということを分からしてもろうて、いよいよそのことをです、そのことに取り組んで、ね、おん御用、御仕事として、本気で、えー、取り組まして頂く。
そうすると、だんだん体が、なるほど疲れることもない。爽快。本当におかげを頂くということにもなってくる。ね、だから、そこんところが体験なんです。おかげは和賀心にあるんです。
ね、今日は一日、御仕事、御御用としてしたばってんきつかった。ね、それをよくよく考えてみたら、本当、ね、本当に口では御仕事、御御用とは言うておるけれども、本当の御用になってなかった。
これはまぁ、みんなそうですよ。どこでもそうです。ならここで、おん御用さしてもらっている、8時間でも、9時間でもここに座らせてもらいます。本当にこれはですね、もうここに座らして頂いておることが、ありがとうしてから、、足が痛いのなんか全然忘れてしまう。
1ね、もう12時にここに交代にみえるときに、もう変わるごとないごとありがたい。そういう時には、全然疲れてないんです。それが本当に、御用になっているんです。ところが、ここに座っておることが眠うして堪えない、もう足が痛うして堪えない。
もう時計ばっかり見ろうごたぁ時もあるとですよ。そげん時の内容をよーく見てみるとですね、自分が座っている。自分でここに頑張っている。まぁその頑張っておることも、まぁありがたいんですね。頑張っておる時は、私どもは修行というわけなんですけれども。ですから、仕事をさして頂いた。
昨日、一昨日でしたかね、高嶋さんが2,3日ここが腫れてから、もうこう、されん。今日はアンマば呼んでからもんでもらいましたと、いうてから言いよんなさるです。どうしてそげん、(???????)係りの、この頃紙書きますもんじゃから、もう肩がこって。ね、そういう時にでもですね、結局確かに、一生懸命自分で頑張ったことだけはまちがいないばってんね。もうがんばらして頂いとらんです。がんばっとるだけです。
ね、今日は修行さして頂いた。がんばらして頂いた。その頂いたとものが、本当のものになってくりゃあ、肩がこったり、ここまでこう(???)が腫れるようなものことまでないと。それを信じなければいけんのです。ね、けども、生身を持っておりますから、やはりついつい頑張ってしもうとるわけです。
ね、ですから、腫れもすりゃあ、やっぱり肩もこるわけです。今日も1日、一生懸命働いてから腰が痛いのもあるのですけれども、これはまだ自分が御の字をつけるところが、まだ足りなかったんだ。神様の本当の御ん用として、御仕事として、それに取り組んで、ありがたいもったいないで取り組んでないと、悟らしてもろうてです。そこんところをもう一遍、明日はやり直すというような、繰返し繰り返し必要なんです。
、そこに、確かに、ね、御働き、神様の仕事でもです。御仕事として、おかげを頂けばどんなにも楽なものか、いやありがたいものかという、体験がいわゆる和賀心に頂けるのです。ですから簡単なことですけれども、これをね、繰返し繰返し自分のものに、頂くところまで、やはり稽古しなければいけない。なら私度もの用に、いうならば神様の直接の御用をさして頂いておってもです、やっぱり、眠かったり、きつかったり、足が痛かったりするんです。
ね、そういう時には、確かに自分ががんばってると、ね。ですから、そういう時には私どもが、結構な修行さしてもらってありがとうございました、と言うてですたいね。修行さして頂いたことを、ありがたいとお礼申し上げておると、肩を凝るとも治っていくだろう、歯の痛いのも治っていくだろう。
だから、どちらにしてもです、ここんところを極めて、金光様のご信心ということはね、徹すること。徹していくこと。ね、一つのみ教えなら、一つのみ教えに徹していくこと。それを中途半端にしないこと。
昨日、私は秋永先生と話したことですけれども、この頃どうか、この頃、久留米の三橋先生の言うことは、もうどげなみ教え頂いて、御理解頂いたっちゃ、結論はどげなことになるかというと、もう生かされて生きておるということの有り難さが、分かりますっちゅうて、この人馬鹿じゃなかじゃろうか。こげなありがたい御理解ば頂いたって、そこだけしか分からんじゃろうか、というような感じですけれどもですね。
もうギリギリのところ、ならそれがほんなことなんですよ。どういうみ教えを頂いても、三橋先生そう言うです。今日の御理解有り難かったって言うけん、今日の御理解のどこがありがたいかじゃなくてから、結局は生かされて生きておるということがありがたいっちゅうんです。だから、ちょいと聞くと分からんです。ちいっと馬鹿じゃなかろうかということ。そうですよ。
けれども、やはり三橋先生としては、どういう御理解を頂いてもそれを頂きよると、だんだん、はぁー生かされて生きておるということが分かります。生かされて生きておることが、ありがたいと思います。そこになるんです。答えは。昨日も、そう言うておりました。
ね、ですから、いわば今日の御理解を頂いて、どう頂いたか、どう感じたか、という答えにはならないよいうな感じです。けれども、やはり、そこんところでこれはもう徹底した、あの答えであろう、と、こう思うのです。ね、極めに極めたところの答えなんです。
皆さん、本当にそのことをですね、信じて疑わずに、本気で行じてごらんなさい。んで、そして、やはり御の字を付けて、下駄も履いた、御の字を付けて車にも乗った、ね、それでもやはり、まぁ、つまずいて転んだと申しましょうかね。
御下駄を履いておるのに、つまづくはずはなかばってん、つまずいたと、そこには、まだ本当にその御下駄様になっていないことを、一つ分からしてもろうて、ね、いよいよ御下駄様として頂けるようになったら、下駄そのものが、つまづくような時でも下駄が助けてくれるですよ。下駄が身代わりになってくれるですよ。本当にですよ。
御自動車という頂き方。秋永先生がもう十何年も前に、あのダンプカーじゃなかった、あの車にはねられなさった時がそげんでした。あのあの下駄履きで自転車で行かれよるところを、後ろからはねられなさった。
ね、あれはあの、ね、兵隊さん達が乗っとる車が通りますね。あの車でですね。それがね、自分の履いておる、その履物が真っ二つに割れた。履物が身代わりになったような感じ。ね。もうちょうど、二年前に、まる二年になります。二年前の事故の時もそうだった。ああいうような大事故があったんですけれども、ね、自動車が身代わりになってくれたという感じ。親子三人は助かった。自動車は、もうそれこそ目も当てられんふうに、めちゃくちゃだった。人間があの自動車にめちゃくちゃになっとたらもうお終い。
いうならば、自動車が身代わりになった。いかに例えば、御自動車としての取り扱いができよんなさるかと。御下駄としての頂き方ができよる、おかげで下駄が身代わりになった、自動車が身代わりになってくれたということになるわけなんです。ね、ですからね、もうここんところを極めていくことです。
例えば、一生懸命事務の御用を中村さんが仰るように、今日一日とらして頂いて、ところがもう本当に、もう帰る時間になったけれども、まだ辞めるじゃ(????)こと。御ん御用をさいてもらいよることが、ありがたいと堪えん。という御ん御用であったら、それはそげんなってくるとですよ。御用。
今日はこがしこも働かして頂いたのに、一つも疲れとらん。もう首いっちょ、こう凝っておらん。肩いっちょ凝ってない、という私は、おかげは和賀心にある、そういう体験を頂けるところまで、これを徹底していかなきゃいけん。
御下駄でも拝み抜かないかん。御自動車でも、御、拝み抜かないん。拝んだばってん事故に遭うたと。まだ拝みが足らんじゃったと、いうような頂き方なんだ、いうならば。
疑いを去って信心してみよと仰る。それを自分の都合のよか時だけを頂いて、先生はあげん言いなさるけれどもと言って、そこのところを全然聞かなかったら、おかげにならん。
そして、疑いを去りて信心していく。疑いを去り。恐るべし。疑えばもう限りがない。目には見えない。聞こえてもこないのが神様。その目には見えない神様の働きを信じ、またそれを神様の御物として信じる。
ね、仕事でも、神様の御仕事として自分が御用さして頂く。神様の御用をさして頂くのに、疲れるはずがない。ね、そう言うておる私もです、やはりここで御用さして頂いておるから、やはり、さして頂いてですね、本当にそれが出来た時には、本当に確かに疲れもなからなきゃ、ただありがたいばっかり。変わるとがもったいないごとある。
ところが、ひょっと、そのきつかったり、眠かったりしたり、足が痛くて堪えれんような時には、よくよく反省してみると、それが、こういうありがたい御用さして頂いておっても、自分でがんばっとうことになると。
ね、がんばらして頂いておる。自分でがんばっとる。自分でがんばったとこだけが、足が痛かったり、きつかったりする。ね、だから、そういう時には、今日は結構な修行をさして頂いてありがたいと。
もうそれこそ、今日は腰の抜けるごと痛かったとような、腰の抜ける修行をさして頂いたというて、お礼を本当に申し上げれるようになると、それが明くる日はまた爽快になる。ね、おかげが必ず頂けてくる。
そこを皆さんがですね、信じて疑わずに頂くことをです、ならいっぺん、そげんしたばってん、いけなかなったじゃなくて、それを繰り返し繰り返していく。ね、そして、なるほど神様の御働きということを、信じさしてもらう。神様の御仕事ということを信じさしてもらう。
それでも、不足な心がで、人間心が出てから、やはりきつかった、痛かった。ね、そういう時には、自分の人間心であった。ということを分からしてもろうてです。ね、お詫びさして頂くと同時に、そこんところを今日は結構な修行をさして頂いたという、いわゆる修行さして頂いたという、お礼を申し上げて、休まして頂くならばです。明くる日起きる時には、嘘のように、いわば痛かった腰が治るようなおかげが頂ける。ね、それを信じて。
ところが、明くる日はまだ腰が痛かったならば、まだ夕べのお詫びが足りなかったと思って、また改めてお詫びをしていくような気持ち、そういう繰り返し、それを、いわゆる徹底していく。徹していくと。信心とは。
そして、はじめてだんだんですね、もう絶対の神様。なるほどっと合点のいく、おかげが受けられるんです。
ね、木の切り株に腰をおろしても、立つ時には礼をいえる心になれと。そういう心持ちになることに徹していく。
ですから、同じことを繰り返すのですから、難しくありません。それを例えば、よう繰り返しもせずに、何回も何回も復習もせずにです、ね、いつまでも、神様を本当に信じ切れない。そして、本当に広大なおかげを受けても、それを本当におかげと思いきらん。本当におかげと思わしてもらうところに、生まれてくるのが、もったいないであり、ありがたいである。
ね、このありがたい、もったいないの中には疲れるものはない。このありがたい、もったいないの中には、もうおかげにおかげの花が咲いている。もうおかげにおかげが募っていく。そんためには、一つのことを、一つ本気で徹底していく。もう一つ今日はですね、全てのこと全てのものにね、御の字を付けなければならない。ね、もう何にでも御の字が付いとると思わないけん。
ね、御の字を付けた、そこからですね、神様のおかげを、ある場合は幻想程度かもしれない。それを、まぁ少し感じるかもしれません。それをだんだん強く本当に感じれる。本当にこの下駄一足がです。神様の本当に御物であると、思わせて頂いたら、ね、履く時にも御下駄様であり、脱ぐ時にもおかげさまとういうことに、なってくるのである。
ね、それをめんどくさいと思わずに、本気で行じてみること。それから、私はいわゆるお互いを挟む余地がなくなる。いわゆる、神様を信じ切る性格的、神様を信じ切る性格。そこのには、神様もまた氏子を信じ切ってくださる、おかげ。それをご神徳と申します。 神様が、氏子が神様を信じる、神様がまた氏子を信じる。ね、親と子が、信じ信じられる、ここに本当の幸せがここから生まれてくる。そのためには、本当に信じさして頂くところまでです。一つのことに、徹底していくこと。
それには、今日私はすべてのもに御の字を付けるということ。ね、それを皆が頂くんじゃない、私一人のために、頂くと信じなくきゃいけん。神様が、私一人に、言うて下さっておると。
ね、だから、例えば頭が痛うても、肩が凝っても、これは御用が、御用になっていないから、肩が痛いと思うてです。それはなるほど、按摩をやって、その晩に良くなるかもしれんでしょう。けれども、それではもうおかげが薄うなってしまう。
これはまだ自分の御用が、御用になってない証拠と思うて、ね、肩が凝るほどの修行さして頂いたことを、お礼を申し上げる。また、御用になっていなかったことを、お詫びをさしてもらう。
そういう繰り返しをさして頂く時にです、もう今度は根本的に、全然凝らないおかげを受けられるんです。例えば、そういうあの善導寺の原さんですね、もう十何年間、ご夫婦でいらして日参。洋服屋さんですから、針仕事をなさる。もうそれは、若い時から長い間ですから、ね、本当にもう肩が凝って肩が凝って、しょうがないほどの肩が凝るそうだったですよ。
ね、ご信心をさして頂くようになってですね、神様の御用ということが分かってきたんですよ。しよったとを、さして頂かれることになったんです。ミシンが拝まれる用になってきた。ね、ミシン。自分のお仕事される前の、いうなら立ち台を拝まれるようになってきた。おかげでね、肩を凝るということを知りません。御用になってきたからです。
ですから、ここんところも繰り返し繰り返ししていかれるうちに、それが御用になってきた。この頃、ミシンの前に行くと、ミシンを合掌せずにおられんと言われる。これ、嘘じゃないです。ね、下駄が身代わりになるっち、自動車が身代わりになる、嘘のごたぁけれども、本当にそうです。
ね、だからそこんところをお互いが信じて、疑わんですむところまで、信心を一つこれは高めていくわけですね。それを、繰り返し繰り返し、御んが菜園に出て、野菜を抜く時にも、神様頂きますと、天地を拝む気持ちになれと。それを煮て食する時には、神様頂きますという心になれよと。
これはもう、野菜だけのことじゃない。一切がそうである。そういう気持ちにならせて頂いたら、いわゆる洋服屋さんがミシンを拝め、ようにならせて頂いたら、ね、長年の肩の凝りが、いつの間になくなったか分からんごと、全然肩の凝るというのを知らんということになってきた。ね、そこに御用、御ん用、のありがたさというものを、いよいよ確信していくことができるのです。
どうぞ、神様の信じてくれよ、このみ教えの中から、ね、疑いはされよとか、ね、疑うことは怖いことだと仰っておられることがです、その反対に、ね、信じてくれて。信じてくれればありがたいことになる。信じなければ、というても神様が、信じてくれよ信じてくれよ、と言うておられる。
ですから、私ども、そこんところをですね、信じさして頂くための、一生懸命の信心の、修行さして頂きよる。その努力をさして頂きよる、そのうちにです、神様から信じられるようになる。ね、信じ信じられる、仲がそこから生まれてくる。その中から、いよいよ、良いものが生まれてくるのはもちろんです。ありがたいことなってくるです。
全てのもの、全ての事柄にでも、一つ御の字を付けて、呼ばしてもらいます。御の字を付けて、感じさしてもらえれる、おかげを頂かしてもろうたら、一切のうえに合掌ができるのじゃないでしょうか。
ね、とくに今日私が頂いたのは、合掌と言うぐらいに強いものはない仰る。合掌というのは、ただ拝みよるだけちゅうだけじゃいかんとですよね。合掌ちゅうことは、合掌するということは、家内と主人が合掌し合う、親と子が合掌し合う、これを合掌ということです。ね、拝み合うということ。
もうこの合掌は、大変に強いものだそうです。合掌というのは。これだけじゃ弱いけど、合掌したらもう、倒れないとか、崩れないとかそういうことになってくるんです。だから、下駄とでも合掌し合わなけりゃいけないと思う。ね。(途中切れ?)
4/26 佐田與一郎